2024年


ーーー2/6−−−  ライブハウス・デビュー


 
長野市のライブハウスのオーナーから出演の依頼があり、チャランゴの演奏をした。私にとって、ライブハウスで演奏をするのは初めて、つまりライブハウス・デビューである。

 と言うとなんだか凄いことのように聞こえるが、実は、オーナーは私がチャランゴを教わっている先生。レッスンはいつもこのライブハウスでやっている。オーナーは自ら楽器を演奏し、グループを組んでライブをやる。また、外部のミュージシャンを招いてライブを行う事も有る。ジャンルは、メインはフォルクローレ(南米音楽)だが、ジャズやシャンソンの演奏会もある。

 今回は、先生がメンバーの一人として出演する月例的なフォルクローレ演奏会に、私がゲストとして招かれた形。アットホーム的な、リラックスした雰囲気のイベントだが、お客様からテーブルチャージを頂くライブだから、それなりの演奏レベルは求められる。

 私は2017年の9月から、それまで触ったことも無かったチャランゴを習い始めた。以来コロナによるブランクは有ったが、およそ6年半、回数にして35回のレッスンを受けてきた。紆余曲折はあったものの、何とか続けて来られ、演奏の力量も少しずつ向上してきた。ここに来てようやく、先生が私の演奏にOKを出してくれ、このデビューに繋がったものと思う(思いたい)。

 ライブ当日、自宅で仕上げの練習をしていたら、弦が1本切れた。私の経験では、これまで弦が切れたことはほとんど無い。何故今日に限って、と暗い気持ちになった。弦は張り替えたが、新たに張った弦はすぐに音程が下がり、落ち着くまでに数日かかる。音程が不安定な楽器では、本番の演奏に不安がある。念のため予備の楽器も携えて、会場に向かった。結果的には、予備を使うことも無く、演奏の合間にチューニングをする程度で無事に乗り切った。

 人前で演奏をすると、いつも通りには行かないものである。練習の時は満足が行く演奏が出来ていても、本番になれば色々な雑念が湧き起こる。それが平常心を阻害する。心が乱れれば、体は硬くなり、指は滑らかに動かず、頭の中は白くなる。今回もそのような状況だったが、結果的に演奏の出来は、練習時の80パーセントくらいだったか。比較的良い方だったかも知れない。

 ライブが終わった後、数人からお褒めの言葉を頂いた。「チャランゴでこんな演奏ができるとは思わなかった」とか「表現の強弱の付け方がステキだった」というような感想も聞かれた。

 チャランゴは、フォルクローレの演奏では、脇役的な伴奏を受け持つのが一般的である。私がレッスンを受けているフォルクローレ教室で、私が入る以前から、チャランゴを習って来たベテランの方々もいる。その人たちは、生徒どうしでグループを組んで、発表会で演奏をしていた。楽器の構成は、ケーナ、サンポーニャ、ギター、ボンボ(太鼓)、そしてチャランゴといった感じである。そういうグループの演奏では、チャランゴはほぼ伴奏を担当していた。

 私は、そういったグループ活動に縁が無かった。後発だったせいもあるが、自宅がレッスン場から離れているので、頻繁に練習に出掛けることが出来なかったこともある。私はもっぱら、先生のギターを伴奏にした、チャランゴ一本の演奏を、発表会でも披露して来た。普段の練習は一人でやるし、たまに知り合いや友人の前で弾くときも、むろんソロだった。つまり孤独なチャランギスタ(チャランゴ奏者)だったのである。

 2021年の2月に、伊那市高遠のイベントで、初めてのリサイタルをやった時も、ソロ演奏だった。伴奏のCDでもあれば、それを使って合奏風に出来るのだが、あいにくそういう便利な物は、私のレパートリーに関しては、無い。そのリサイタルでは、自分が期待したほどの反響は無かった。

 コロナ禍が明けてレッスンを再開した時に、そのリサイタルの顛末を先生に話したら、先生は興味をそそられた様子だった。まず、チャランゴだけで6曲も演奏するリサイタルを挙行したことが、意外だったらしい。そういう事をやった生徒さんは、これまで居なかったのだろう。そして、「ギターの伴奏が付けば、良い演奏に聞こえるものだが、チャランゴ単独では、聴衆の心に響くような演奏は、よほど工夫をしなければ難しい」と言った。そして、「これをきっかけにして、今後同じような演奏会が入ってくることもあるだろうから、あらためてソロ演奏を前提として、レパートリーの曲を練習し直したらどうか」とコメントされた。

 そのような経緯があったから、私は「受けにくいチャランゴのソロ」という重荷を背負って練習をしてきたことになる。今回のライブを終えて、そういった練習の成果に、一筋の光明が見えた感じがした。図らずも、自分らしい演奏スタイルを作り上げるという、新たなテーマの渦中にあることを気付かされた。まだまだ未熟だが、そのテーマに向けて、精進を重ねたい。




ーーー2/13−−−  小澤征爾さん逝く


 
小澤征爾さんの訃報が伝えられた。文字通り世界的な指揮者である。日本人で、ここまで上り詰めた人は、他にいないだろう。毎年正月にテレビ放映されるウイーンフィルのニューイヤーコンサート。2002年は小澤さんが指揮をした。その時の優美かつエネルギッシュな演奏と、世界各国の言葉で「明けましておめでとう」と述べた時の、茶目っ気たっぷりの仕草が、昨日の事のように思い出される。

 私はオーケストラをやったことが無いから、指揮者というものが、楽団に対してどれほど多くの影響力をもつのか、具体的には知らない。だが、話に聞いた事はある。ある市民オーケストラのこと。プロの指揮者を常任として迎え、定期演奏会をしており、演奏レベルはかなり高い。そのマネージャー氏から聞いたのだが、新しい曲の最初の全体練習の時は、不協和音だらけで、モーツァルトの交響曲がまるで現代音楽のようだったと。それが、指揮者の指導のもと、練習を重ねるうちにまとまってきて、本番ではまともな演奏に仕上がっている。「指揮者って、凄いんですよ」と聞かされた。

 そのレベルでも凄いのだから、世界の名だたるオーケストラから招かれ、世界中の人から拍手喝采を浴びてきた小澤さんは、いったい何者なのかと思ったりしたものである。恐らく私なんぞには想像も出来ないような、ずば抜けた才能とカリスマ性の持ち主だったのだろう。

 印象に残っているエピソードがある。テレビのインタビューを受けた小澤さんが、「私なんか、やくざな商売ですからね」とのたまったのである。インタビュアーのアナウンサーが驚いた様子で、どういうことですかと聞き返すと、「楽器の演奏にしろ、声楽にしろ、演奏家は大変な努力を重ねて技術を磨き、音楽に取り組む。それに比べて指揮者などというのは、楽譜を読んで、棒を振るだけですから」と答えた。しかし、こうも言った「楽曲というものは、ただ五線譜に書かれているだけですが、それを音楽にするのは、難しいんですよ。いや、本当に難しい」 

 ところで、私は小澤さんが指揮するオーケストラの演奏を、一度だけ生で聴いたことがある。

 ベートーベンの交響曲のゲネプロ(最終リハーサル)のチケットを人から貰ったのである。差し障りがあるので、詳細は伏せておく。当然だが、本番のチケットは入手困難なくらいの、大掛かりなコンサートだった。

 その演奏が、私にはピンと来なかった。期待外れの内容だったのである。指揮する小澤さんも、なんだか苦悩しているように見受けられた。楽章の合間に、楽団員の中に入って行って話し込んでいたが、傍目にもちぐはぐな雰囲気が感じられた。

 世界的なマエストロが指揮をしても、ちょっとした事で歯車が狂うと、良い演奏にはならない。あらためて、指揮者が担う仕事の重要さと難しさを、垣間見た思いがした。

 さて、このコンサートのことを、クラシック音楽好きの友人に話したことがある。友人は「小澤征爾が指揮をして、そんな演奏になるはずが無い。お前の耳がおかしいんだ」と言った。そうかも知れない。演奏が終わったとき、私は居たたまれない気がして、逃げるようにホールから出たのだが、背後では割れるような拍手が鳴っていた。




ーーー2/20−−−  温泉スタンド


 
安曇野市穂高には、温泉スタンドなるものがある。中房温泉から引湯した湯を販売する施設である。装置にお金を投入すると、金額に見合った量の湯が、上から垂れ下がったホースから出る。それを、トラックの荷台に設置したタンクに入れ、自宅に持ち帰って浴槽に満たす。すると自宅で温泉に入れると言うわけだ。料金は、10リットル当たり10円。家庭の風呂で使う人は、100円玉二枚で200リットル買う事が多いようだ。

 我が家も、引っ越してしばらくして温泉スタンドの事を知り、10年間くらいは利用していた。同居していた父が風呂好きで、自宅で温泉に入れることを喜んだからである。

 湯を運搬するには、大きなタンクが必要だが、それは穂高駅前の金物屋で「温泉タンク」と称して売っていた。我が家が購入したのは、容量が400リットルのものだったと記憶している。湯の出口は、タンクの下部に付いているノズルだが、そこにバルブを取り付けて、開閉できるようにする。それらも金物屋がやってくれる。当時所有していた1トントラックの荷台にそのタンクを乗せ、湯を買いに行ったものだった。湯を入れて自宅に戻ると、バルブにホースを接続し、先端を母屋へ引っ張って行って、浴室の窓から浴槽へ落とした。ホースは直径4センチくらいの、螺旋状の補強材が入った立派な物で、カップリングでバルブに繋いだ。

 我が家の土地は若干の傾斜があるので、トラックの荷台は風呂場の窓より高い位置になる。だから、タンクのバルブを開ければ、高低差で自然に湯が流れ、浴槽に満たされた。そういう条件が整わない家は、トラックの荷台にかさ上げ用の台を置き、その上にタンクを置いて、必要な高低差を確保していた。夕方が近づくと、ごつい木材を組んだ台の上に大きなタンクを乗せた軽トラが走っているのを見かけるが、それは温泉スタンドの利用者である。

 温泉好きの父は、よく温泉スタンドを利用した。と言っても、父が利用するのは湯だけで、トラックを運転して買ってくるのは、私の役目だった。自宅で温泉に入れれば、温泉施設で入浴するより安上がりだし、出掛ける面倒も無く気軽である。誰に気を使うことも無く、一人でのんびり温泉に入れるのだから、父はとても気に入っていたようである。

 ところで、今でも鮮明に思い出す出来事がある。

 ある日、いつものように私が温泉を買いに行った。自宅へ戻ると、父がホースを配置して、受け入れ態勢を整えていた。ホースの先は、浴室の窓の向こうに消えていた。浴槽は母が洗浄済みだと、父は言った。準備万端である。私がタンクのバルブを開けると、湯がドクドクとホースに流れ込んだ。

 タンクの湯が終わりに近づいたとき、誰かが異変に気が付いた。浴槽に湯が溜まっていないのである。浴槽の栓が空いていて、流れ込んだ湯はそのまま浴槽の底の排水口から出てしまっていた。母が、浴槽を洗った後、栓を閉め忘れていたのであった。

 それを聞かされた時の、父のあっけにとられた顔を、私は今でも忘れない。




ーーー2/27−−−  唾液の風船を飛ばすクラスメート


 
私が通った高校は、男子校だった。その年齢の男子は、変な奴とか、でたらめな輩がいるものだ。自由な校風の学校だったので、その傾向は顕著だったかも知れない。そんな中でも、他に類を見ないほど、へんてこりんな奴がいた。

 極めて変わった特技を持っていたのである。それは、唾液で風船玉を作って飛ばすことであった。口の中に唾液を溜め、舌を器用に動かして息を入れ、風船玉を作る。それを舌の上に乗せ、フウッと吹いて飛ばすのである。玉の大きさはせいぜい直径15ミリくらいだが、ふわふわと空中に浮かぶ光景は見ものだった。

 その男子は、唾液の風船玉を飛ばすことが、ほとんど癖になっていた。休み時間に友人たちと雑談を交わすときも、常に口をモゴモゴさせて、風船玉を飛ばす。それが飛んでくると、友人たちはワアワア言って身をかわしながら、「服に着くときたないから止めてくれ」などと言う。当人は、「あっ、ごめん」と言うが、またしばらくすると飛ばし始める。無意識の内に出てしまう行為のようであった。

 授業中も飛ばす。彼が教室の最前列、教卓のすぐ前に座っていた時のシーンを思い出す。後ろから観察していると、時折その子の頭の向こうから、風船玉が現れて飛んで行くのが見えた。後ろの席の子らはそれを見て「またやってるな」と、ニタニタしたものである。先生が黒板を向いているときなら問題無いが、こちらを向いているときも、ついやってしまう。それを見て怒る教師もいた。「授業中に変なことをするな」と。

 もちろん、簡単な技では無い。やり方を教えてくれと頼む子がいると、彼は丁寧に教えるのだが、真似が出来た子は一人もいなかった。そもそも唾液で風船玉ができるということが、不思議だった。しかし、何か薬剤を口に含んでいるということも無かったようである。彼の唾液は、特別に表面張力が小さい性質を持っていたのだろうか?

 もはや氏名も覚えていないが、あの不思議な光景だけは目に焼き付いている。私と同じ年齢だから、彼も70歳になっているはずだ。まだあの技を続けているのだろうか。孫の前で披露すれば、じいじは人気者になるだろう。いや反対に、「じいじ、きたないよ」と嫌われるか。